職場での私の席は、会社の最先端部署の端っこのデスクで、隣と前と斜め前には国立大卒の優秀な方々が座っている。
そのうちの1人は、去年大学を卒業したばかりの女の子で、爽やかでかわいくて、姿勢が良くて、挨拶もきちんとできる素晴らしい子。
聞けば高校まではクラシックバレエを習っており、趣味はお料理で、お母様とクッキングスクールに通っていたのだそう。
前の席なのに、私が仕事のことで質問をすると、くるっと回ってわざわざ私の横まで来て聞いてくださる。
うちの子と年齢が近いのに、こんなにも違うなんて…親御さんはどうやってこんな完璧な子に育てたんだろうと感心すると同時に、自分の未熟さを恨めしく思ったことも何度かあった。
しかしその彼女と1年以上もの間、一緒に働いていると、何度となく見えてきたものがある。
仕事上で、私がふと気がついた小さなことが、放っておいたら大きなトラブルになる可能性があると伝えてみる。
一刻も早く謝罪の電話を入れた方がいいとか、ホームページのあの文言は削除した方がいいとか。
しかし彼女はそうは思わないのか、曖昧な返事をして上司に伝えることなく話が終わってしまう。
トラブルが起きてしまっては後が面倒なので、仕方なく私が部署の皆さんに向けて大きな声で警告を発すると、上司が慌てて彼女たちに何らかの指示を出して対処する…ということが何度かあった。
小さなことで言えば、足りない文具の注文を彼女にお願いしたがなかなか手元に来ないので何度か催促…、それでもなかなか来ない(アスクルなのに)。
1カ月ぐらい経ったある日、昼休みに外出して帰ってきたとき、デスクの引き出しを開けると注文したものが入っていた。
目の前の席なのに、わざわざ私がいない時を見計らって引き出しに入れて、何食わぬ顔をしてるもんだから心の中で爆笑。
おそらく私は、重箱の隅をつつくようないや~な面倒くさいババアだと思われているだろうし、彼女が何でもすぐにやらずに後回しにする子だとわかってからは、急を要することは、別の人に伝えるようにしている。
先週だったか、彼女が大きめのエコバッグに何かを入れて出勤し、中身を出した後のこと。
まるでレジ袋をグシャッとしてクルッと結ぶような感じで空になったエコバッグを丸めてポンっとバッグに入れた。
大きさで言えば、握りこぶし2つ分以上の丸くなったエコバッグ。
きちんとたためば、きっと1/4ぐらいにはなるだろうに。
びっくりしたので家に帰って娘に伝えると、こんなこたえが返ってきた。
「そんなの全然ふつうやん。私もするよ」
いや、娘がそんな子だということは私が一番わかっているけれど、「きちんとしたお嬢さん」と思っていた彼女がそんなこと…
そんな感じで時間の経過とともに、彼女の意外な一面が見えてきて、やっぱり隣の芝生は青く見えるんだなぁと思った。
しかし、よくよく考えてみると、ちょっと前に絶賛されていた芦田愛菜ちゃんの言葉…そのまんまではないか。
「その人のことを信じようと思います」っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、それがどういう意味なんだろうって考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかなと感じて、だからこそ人は「裏切られた」とか、「期待していたのに」とか言うけれど、別にそれは、その人が裏切ったとかいうわけではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけであって、その見えなかった部分が見えたときに「それもその人なんだ」と受け止められる、”揺るがない自分”がいるというのが信じられることなのかなって思ったんですけど。でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。
だからこそ人は「信じる」って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました。
そう思って期待に応えようとする反面、頑張りすぎて疲れてしまい、結果、自分が自分でなくなるという…。
他人が考える「私らしさ」というのは、自分のある一部分だけを見た人が勝手に想像して作り上げたものであり、それは私が考える「私らしさ」とは決してイコールではないということがわかっていた筈なのに。
私の娘も外ではうまく振舞っているようで、たまに褒められでもすると、「いやいや、家では本当にだらしなくて…」なんてバラしてしまうことも多かったが、そんなことなんだとわかった。
他人への過度な期待や評価は、相手にも自分にも必ずしも良い結果をもたらすものではないと胸に刻んでおくことにした。
シングルマザーのブログランキング
コメント